3 インサートショットは何を目指すのか

〔以下また捏造です〕

映画におけるインサートショットの定義付けを、冒頭で試みました。象徴を用いて、直接は描かれていないシーンの複線を"察する"事が出来るようにするというものです。この定義は全然間違っているということはないと思うんですが、この限りにおいて、映画監督の仕事というのはそれほど高級な表現を目指しているわけではない、ということを言っておかねばなりません。アナロジーというのは、フィクションの上であれ現実の上であれ、人が普通に行っていることですよ。心的な機能を考えてみると、人間は何かを考え続けざるを得ない、ということになる。考えるということは、ストップできない。言葉で考えるのであれば、すべてアナロジカルですよ。それも多かれ少なかれ自分勝手にしているにすぎない。ああなればこうなる、というのは合理的だということで安心したいだけです。事実とは違う。というか、事実というのをいくつかのの合理的な仕組みで認識しているだけ、ということですね。その方が楽だから。だから、現実で思い悩むなよ、と言いたいんですが。まあこれは蛇足として。じゃあ、高級なインサートショットってのは何を目指すのかという疑問が、自然と合理的に導き出されるわけですが(笑い)、一言で言うと、考えることが行き詰まってしまうような出来事との遭遇を演出する、ということですね。それによって生(なま)の感覚を知ってしまうというか。その時は、本当に"わかる"。で、それをもう誰に誇る気もしない。理解の仕組みが違うから。でもしばらくすると、興奮してきてあれやこれやとべらべら話さずにおれなくなるんですが。でもこのときの興奮というのは、ちょっと潔いんです。ストローブ=ユイレ(※10)の映画なんて、そうした遭遇の場としては秀でていますよね。後やはりゴダール(※11)。こういう作家達は高級であることを理解してやっているから、"あざとい"面もあるんですが、"上手さ=誠実さ"がそれを隠してますよね。高級なインサートショットに技術的に到達できるのか、ということはよくわからないのですが、それは作家の思想的な事よりも、ただまじめに映画が作れるかということにかかっているような気がします。打算なく作品と付き合っていると、映画というメディアその物の特質が迫ってくるでしょう。ものが写っていることに、ただ驚くとか。その音が聞こえてくるだけで、ただもう胸が詰まるとか。対談始める前に、高橋さんとホウ・シャオシェン監督の「珈琲時光」(※12)の話で、ひとしきり盛り上がってしまいましたけれど、高橋さんも鋭いから、あの一青窈(※12)の部屋のカーテンが凄い、と、こうくる。で、僕もそれに完全に同意するから、それでもう泣きそうになるわけです。カーテンはこの場合象徴というより単なる記号ですね。格好つけずに言えば小道具ですね。第一義的にはそれは陽の光を遮るものである。それが映画の中で、ダラッとぶら下がっていて、一青窈さんがスッとそれを束ねると、みるみる一枚の布の感触が独立して迫ってくる。もう見てないですね。触れている。で、はたと気づくのは、ああ、これが見るということからくる裸の感覚か、ということ。その体験は一瞬ですよ。今言葉で言えば、そういうことかもしれない、ぐらいのことです。"一青窈"と言う文字を打ってみて気持ちが騒いできましたので、この映画における彼女の素晴らしさについて少しだけ書いてみたい。これはホントに難しい役であったろうと思うんですね。設定の上では、彼女はちょっと社会から浮き出てしまいつつあるわけです。これから未婚の母になるんだということがわかってきたり、台湾の誰も注目しなくなったような作曲家の足跡を、ジャーナリスティックというには非常に心もとない、行き当たりばったりに見える仕方で追ってみたりする。映画ではそういう女性が描かれるとなると、どこかで、アジテーションのようなものが起きて、それによってこの女性は落ち込んだり、また快復したりするんですね。この映画のストーリーというのは、そういう風にはならない。彼女はただ、淡々と自分の足取りで生活しているだけ。そう書くとすぐまた、女性として歩む人生の機微みたいな路線が出てきそうですが、そういう企画でもない。映画的な理性からすると、彼女にドロップアウトした立場を強いて、それに見合ったどたばたを演じさせることで、キャラクターの個性と演出の意図をつり合わせようとするわけですが、そういう映画ではないんです。そういう映画ではない、ということが実は大変不思議なことで、大変不思議なことをしている人達というのは、どこかで聡明さに繋がるようなものの見方を持っているはずだ、と私は思っています。この映画で重要なのはもう一つ、電車ですね。東京で撮られたということの意味は、これだけ過密な都市の地上を、あれだけの数の電車が走っているということが一つあるでしょう。野蛮な都市ですね。それで、電車に限らず、鉄道に関するあらゆるイメージがたくさん出てきます。鉄道というのは非常に大きな規模での建造物ですが、駅でも、線路でも、その構造がむき出しのまま見えてしまっている。ヨーロッパなんかですと、駅がシンボリックな建築として街の中心に構えていたりしますが、東京の鉄道というのはずっと循環していて、劇中、浅野忠信さん(※12)が山手線の絵をコンピュータグラフィックで描いたりしてますが、始めと終わりが明確でない、純粋にアクセッシブルな機能なんだということだろうと思います。構造が目に見えてしまうというのも同じで、審美的に取り繕うことなしに、機能だけが提示されているわけです。ですからちょっとばかげた言い方かもしれませんが、ホウ・シャオシェン映画における東京の鉄道というのは民主主義的なんです。私はこの電車に乗る一青窈さんが本当に凄いな、と思って見ました。"あのカメラは今、わたしを撮っている。何故かといえばこれは映画で、わたしには演じる役があるのだから"という理解に抗って立っているようなんですね。言い換えてみると、フィクションという制度が強要する身振りを跳ねのけて、電車に乗っているんです、高円寺から有楽町を目指して。途中つわりが来てモゾモゾするというのがこの電車のシーンでの意義なんですが、ドラマが始まる前に長々とその被写体をとらえておくという監督のいつもの演出が、計算以上のインパクトを生んでしまったかのように見えました。あの表情と立ち方というのは、ちょっとなにを考えているのかわからない、というか、お話の上で安心して身を任せられる様な情緒を全く与えてくれない、非常に厳しいものがあった。彼女が今どんな立場にいる人であろうと、都会を行く電車の中では、うかつなやり取りなど容易には受け付けられないような厳しさの中で存在している、つまり、リアルということですね。こうしてまた私たちは、フィクションにおける、表現の自由ということを、ある種の不安定さの中でしっかりと視覚に刻み込むのです。映画の冒頭で、一青さんと浅野忠信さんが古本屋の店内で会話するシーンが出てきますが、ちょっと映画の好きな人なら、ああ、この二人はお互いに惹かれあっているのだな、だけれどそれが明かされるようなシーンが出てきてしまったら、今維持されているこの緊張感は一気に吹き飛んでしまうだろう。それぐらい繊細な映画だな。ということが瞬時に見て取れることと思います。私の年若い友人は『ジャームッシュに東京で「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の様な映画(※13)を撮ってくれというのは無理な話だけれど、ホウ監督がこの映画を撮ってくれたという事実には、心から感謝したい』と言っておりましたが、全く同感です。


y・映画における優秀なインサートショットとは、その前後で語られるストーリーの、フィクションが持続していることの嘘臭さを強調する。で、作品全体としてみるとこうした構造が逆にリアルだということですね。我々は理性と感覚のせめぎ合いの中で生きているのだ、という事を知るわけです。ここに至る一瞬の認識が、感動とともにあると。しかし、音楽で似たような効果を実現しょうというのは、結局無理があったのかなと...

t・そうですね。このガムラン部分を曲全編の中で全く別の一部分とする、というふうには聴けないですよね。ひと続きの時間の流れの中で聴いているわけですから。

y・思いきり異化するために、この部分に突然サルサのリズムが出てきたりってことは、単に審美的な理由で言っても最低ですし(笑い)。

t・エアー録音からくる、遠くかそけき感じを醸し出しながら、また現実に戻ってくる、という感じが非常にしますけれどね。ホントは違和感のあるものを放り込んでいきたかったわけですね、ここは。

y・そうですね。物語を作るというのは、ちょっと怖いところがありまして、書いているほうがある程度どっぷりそれにはまらないと進行しきれないんですよ。ロマンスに浸りきらないとね。それで、アヤコレットが歌う、ある時代、アジアの片隅に生きる一人の娼婦の物語から、僕がだんだん抜け出せなくなってくるわけですよ。ジャンルとしてのメロドラマ的なものというのは恐ろしい。恐ろしいのは良いことなんですが(笑い)、それはフィクションというのは事実に比して恐ろしい、ということなんです。これに気づいてもらわないと成り立たない。どこかでロマンスの持つ論理構造から抜け出てもらわないと、それが分からない。だから"紅い"とか"橋"とか、ガムランの音色とか、ひいては歌詞の悲劇性とクロンチョンという音楽の楽天性との対比とか、感覚が優位に立つような仕掛けを色々模索していったわけです。しかしどうやら、それら全てがメロドラマの進行に、素直に貢献してしまっているようです(笑い)。悪い意味で、上手すぎるんですね、この曲は。

t・確かにサビの部分の歌詞、『流れ谷を越えて 満つる淵 北の森の紅い橋』の部分を抜いてしまうと、通俗的なホラーモノの記号だけが、詞(ことば)の上で際立っちゃいますね。あの歌声だし。

y・そういう怖さで押し通すなら、もっと過激な言葉が入ってきても良いわけですね。どっかに爆弾が落ちるとか、誰かが血まみれだとか。それもパロディーとしては面白いかもしれないけど。歌だけに。

t・このリフレーンでの言葉とかガムランパートなんかは、物語の上でベースになる悲劇性ということを解しつつ、そこから距離を置くように配置されていますよね。ちゃんと引きの絵になっていますし、

y・"引きの絵"ですね(笑い)。

t・ずっぽりと入りきってやり過ぎにならないように、(独唱部とコーラス部は)一回ずつ反復しながら、距離を置いて。で、その距離が怖さをまた生み出していますよね。だから、(物語的なものへ)メンタルな部分で入り込ませないようにするテクニックみたいなものは分かります。クロンチョンというモチーフの、ゆるくて、たおやかで、といった感じの在り方も、ステロタイプ的で無い、独特なものに聞こえてくる。歌い手がどういうつもりなのかは分からないのですが。

y・アヤコレットはいつも、自分が歌うキャラの個性や設定をすごく知りたがります。僕は、それを言うときもあるし、言わないときもあります。この曲では詳しく説明しませんでした。ただ歌い方の演出として、ぎこちない感じでやって下さいと。朗々と歌い上げないで下さいというようなことだけ指示したと思います。しかし、ここでの彼女は素晴らしいでしょ!この不気味さは、持って生まれたものと言ったら、やばいんですが...(笑い)。

t・ホントに、この人の立ち位置はわからない、という歌い方ですよね。何処の世界の人なのか分からないような。それから、そこにかぶさる、フミノスケ君のコーラスもこれまた面白いですね。テレビなんかのホワイトノイズの中から、たまたまチューニングが合ってしまって聴こえてくるようなフェノミナン(※14)みたいですよね。

y・フミノスケ氏は自分の役割を、逆によく理解していましたね。彼は、自分がこの歌のストーリーに直接関わるわけではないのだということを、口には出しませんでしたけど、直感していたと思います。録音の時のエピソードとして、これは取りようによっては笑い話なんですが、最初フミちゃんは歌詞を間違って歌い続けていたんですよ。『な〜が〜れだにをこえ〜て〜』って。"谷"じゃなくて"だに"と歌ってたの(笑い)。

t・それどういう意味ですか?

y・"流れ谷(だに)"て言う名前の谷があって、そこを越えていくという意味だと思ってたらしい。ムーミンの"おさびし山"(※15)みたいなもんですよ。つまり、自分はファンタジックな設定を提供する役なんだということでしょうね。それは正しいんです。ムードコーラスです、とだけは言ってありました。つまり、歌謡曲の非常にベタな表現が欲しかった。それが、アヤコレットとの対比で、寓意的な表現となるわけです。シンガーソングライター的な歌い方から離れてね。音楽的なんですよ。ヤーコさんはもっと散文的でね。

t・正しくコーラスの役割ですね。

y・たぶんこの曲の歌における音楽的な表現は自分の分担で、アヤコレットはなんかもっと別のこと(詩の朗読とか)をアメフォンに言われてやらされてるんだろう、ぐらいに取ってたかもしれない。そういうことを口に出して分析してみる人ではないですが。まあ、"だに"ってのは音として美しくないんで、録音の途中で気づいて、彼に"たに"ですよって言ったら、なぜか大爆笑してましたね。メルヘンチックになりすぎたな、ということだと思うんですが、でもそれが、氏の素養だからね。そのことも理解してて、あんなに笑ってたんだと思う。いずれにしても、この曲の仕組みとしては、"流れ谷(だに)"っていうふうに名付けたのは正しいんです。寓話の効果です。

t・背景を理解していたということですね。

y・ええ。理解して、そして非常に上手く背景を作ってくれた。コーラスパートの特にサビの部分はメロディーの線がハッキリ出るところです。それに対して、ヤーコの歌はどこか頼りなげで(しかし実はこれ難しいメロなんですよ)、アンニュイなものです。歌とコーラスの関係が表現上逆転していると。これはまあ、常套手段ですよね。ゴスペルとかでも。我々はホラーですが(笑い)。

t・まあ単純に言っても『流れ谷を越えて』の歌い上げ方は、やっぱり怖いですよね。

y・ちなみにあそこのコーラスの盛り上がり方はパパ・ウェンバ(※16)を意識しまして。

t・ホントですか!?

y・名曲「ズーズーマヤマヤ」(※16)の中のフレーズを...(笑い)。

【「ズーズーマヤマヤ(Zou-Zou Maya-Maya)を聴く】

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