2 これは”ホラー”なんです

y・自分が信じているストーリーラインの基本色は白で、なおかつ一人の娼婦とその相手とのお話といえる。その相手というのはここでは無個性な存在でよくて、むしろこいつこそが象徴でいいんです。娼婦の顔は出しても、その相手の男の顔は出す必要がない。『眠るあなたに 手をかざす』ということですね。顔は手で覆って隠しちゃう。

t・確かにラブストーリーと言っても、動いているのは女性の方だけ、という印象ですよね。

y・顔を手でかざされて以降、男は出てこないしね。だからカップルの話とも言えないですね。この歌は、ある娼婦の存在感が悲劇的なものを要約して出せていればそれで良い、というモチベーションなんですね。で、この悲劇性が曲の中で何かしらを展開させていくことがないようにしたかった。そうすると、どうしてもパロディーになってしまうような気がしましたので。具体的な歴史を示す言葉を入れたりしてね。悲劇が動かせない、ただそこにあって、それに囚われていくしかない。何も解釈しないというのが、白いまばゆい光の光源ですね(しかし、これだと"無"ですね)。

t・それが詩を書くときに意識されていたことであると。

y・ええ。で、それは、曲を書いているときに受けた白い光の啓示に基づいていると。ロシア人みたいですね(笑い)。

t・勝手に想像(妄想)が膨らんでいきますが(笑い)、そうなると、『流れ谷を越えて 満つる淵 北の森の紅い橋』という形で挿入されるメロディーは、一つの風景として、映画であればインサートということで、理解できます。ですが、それが登場人物たちの動向と直接は関係ないのだとしても、やはり、この女性、彼女が通ってきた道であるとイメージができませんか? 位置関係に注目すると、この男女がいるのは紅い橋の架かる谷の奥であろうという感じがする。で、この彼女の動きを最後まで追っていくと、僕が柳川さんの話を聞いたあとの印象からすると、彼の方はもう死んでいるのではないかと...。ひょっとして、彼女、殺しちゃってない?、ぐらいの感じがしてきますね。

y・二人のいる位置に関してはともかく、男の方は殺したいですね。演出の上では。できればその死が、最後のショットで確認できるようにしたいですね。ああ、最初から死んで横たわっていたのか、と。フランソワ・オゾン監督(※4)のようですけれども。

t・どんどんその気になってきますが(妙に、はしゃぐ)『朝日さす 輝き真白く染めて 窓辺に立ち 眠るあなたに 手をかざす』のところは影が見えるだけで、後はもう光で真っ白ですよね。彼女が手をかざしている像は、強い逆光の中で浮き上がっているという。

y・乗ってきましたね。そう、もう、これはホラーの主題です。それしかない。やっと告白できた。

t・ホラーですね。夜を共にし、朝になり、彼はすでに動かなくて、彼女はそこで呆然と、それでいて何か一つ事をなしえたかのように立ちつくし...

y・そして、最後の一行をちょっと読んでみて下さいよ。

t・『いでる午後に 置き忘れたのは 別れの言葉』

y・いやー、いいですね(はしゃぐ)。無言で、別れを告げるという。もうこの(無に帰した)男と再び会うことはありえないという形で、黙って出ていくわけですね。

t・で、森に帰って行くわけですよ。

y・うーん、それはちょっと...。音楽で恐怖を表すということになりますと、大体すぐ想像するのが、恐怖映画のサントラですよね。ペンデレツキの「シャイニング」(※5)とか、ゴブリン(※6)とかね。ギャー!ってやつ。不協和音とか、強拍でのリフレーンとか。まあ、生理的な処理ですよね。もちろん、あれは映画に付随した音楽ですから、スペクタクルを盛り上げるという方法としてはやむを得ないということなんでしょうけど。音楽だけでやるときはね、ここには記されていない情景というのを、いかに想像させるか。無い、ということがすなわち恐ろしさに繋がるというアプローチにしたいですね。これは、蓮實重彦の名前をここに再び出させていただくと、先生のなされる愛の定義と同じなんですよ。曰く"無い事"、という。

t・さも、ないものがあるかのように感じる、その想像力が働くのが怖いということもありますよね。得体の知れないものが"ある感じがする"というのが怖い。(ハッキリと、得体の知れないものがある、とわかっていれば、まだいいのです)『泣かないで そっと微笑み肩を抱く 夢を見たわ 深い井戸へと 小石が落ちる』なんて、意味深ですよね。これって、いったいなんなの、でしょう?

y・まあ、"落下"というのが、また一つ恐怖の主題でして...。話は変わりますけど、ここが唯一、コーラスが独唱部を歌う女性に語りかけているように聞こえる所なんですね。これがまた不気味で。

t・フミノスケくんとアヤコレットによるコーラスとソロですね。この独唱とコーラスの対比も何らかの意図があるんですよね?

【「独唱とコーラス」を聴く】

y・そう。基本的には、このコーラスというのは、女性の独唱に対してのインサートなんですよね。本来二つは別の空間で鳴っているのですが、意味的には微妙に近いと取れるような位置にいる。例えば、このコーラスが、ある情景を歌うと『庭深く 濡れる木立に立つ家に』あたかもそこで示された場所にこの独唱する女性が現れるかのようになる。ただ二つの表現の質感が違えてあるので、つまり、滑らかに歌い上げられる非常に音楽的なコーラスと、辿々しくどこか散文的な独唱『呼ばわれて 朝を迎えつ 髪をとく』の対比ですね(さらに、ディレイによる空間処理も別次元をねらってますね)。この差が耳にハッキリとしているので、そこで歌われる二つの内容は、関連性を保っているようでいて、どこか別の空間で起こる二つの別のことについてである、かのように聞こえているわけです。これを持って、人はこの曲を聴くと、"なんか不思議な感じがする"とだけ言うわけですが(笑い)。方法論としての不思議さになかなか食い込んできてくれない。まあいいですけど(笑い)。

t・メインはアヤコレットの独唱なんですよね?

y・そうですね。彼女が主人公の娼婦の役ですから。コーラスはインサート。この世ならぬ声かな。



【ここまでテープ起しを進めて、手を止める。書くということは、書かれなかった言葉を横目に忍んでいくという行為だけれど、たまには流れに逆らってみるのも悪くなかろう。捏造してまでも】amephone

t・でも、情景描写としては これまたインサート的な役割である(にすぎない)『満つる淵 北の森の紅い橋』というフレーズ、これを歌うのはコーラスではなくアヤコレットの独唱ですよ。

y・そうですね。ストーリーの語り手が、本来その筋とは無関係に、あるいは暗示的に成立していなければならないはずの、インサート的な情景描写まで語ってしまってますね。映画で言ったらこれは矛盾した表現になってしまいます。でも音楽なので、許されるのではないでしょうか(笑い)。事実、『満つる淵 北の森の紅い橋』における『満つる』の"る"の音はここだけG#ですから、ちょっと変わった感じがするでしょ。湯川君が付けたコードだと、ここE7だけど、僕からするとEメジャーだね。一段目の4小節目の第4拍から、ニ段目の1小節目のEを白(※7)で引っ張って第3拍まで。"みつるふち〜"のとこ。続く"きたのもりのあかいはし"は16分音符で一続きに歌われるわけですから、ここをあのコーラスでやったら、不気味きわまりないでしょ、それじゃギャグですよ(笑い)。だから矛盾してても、独唱で良いのではないかと。



t・ちょっと意表をつく展開になって参りました。

y・今日は私、ホラー宣言が出来てほっとしております(笑い)。「紅い橋」はジャワのクロンチョン(※8)という音楽の形式を元にして作曲されていますが、この優雅なリズムに悲劇的な内容を持つ歌が乗るというという方法ですね。このアンバランスだけ取っていただいても、ホラーの要素は満たしているのではないかと。明るく楽しい印象じゃないな、ということぐらいは一聴して伝わると思いますが。

t・明らかに楽しい印象じゃないですね(笑い)。それはもう詩の世界だけじゃなくて、楽曲自体のあの(音)質感、二人の声の響き方にしても、独特の引きずり込まれる感はありますよね。それに途中、ガムランのパートが出てくるじゃないですか。あそこでまた、深く迷い込むというか...

y・あの部分の話にいきますか。歌を三番まで歌い終わって、少し展開した後に出てくるのは、ガムランのアンサンブルです。これは高橋氏のカリンバを真空管アンプでひずませた音を5〜6チャンネル分ダビングして作りました。ところでカリンバのチューニングは、キーは何でしたっけ?

t・Bのフリジアンか、Gか(※9)と言ったところですね。

y・なるほど、僕の"気持ち"としてはEでしたので、それほど遠くはないと(笑い)。スリン(竹笛)もEでしたね。無論、あの楽器のピッチはちょっと独特なものがあるけれど。ところで、なぜ、このパートでは転調したかということについて、ちょっと説明しなければならないでしょう。それは楽器の特性を考慮してという理由ではありませんでした。「紅い橋」のサビの部分に戻りますけど、アヤコレットの独唱で歌われるその後半部分ではEのコードが使われています。『満つる淵 北の森の紅い橋』というところ。厳密には『満つる淵 北の森の』まで2小節分ぐらい。ちなみに全編のキーはDです。つまりここだけ別種の光が差してくるようにしたつもりでした。"白くまばゆい輝きの世界"の中で、ここだけ別の角度からの光がやって来る。差ができるんです。そしてこのアイディアが、ガムランのところでまた戻ってきてしまった。つまりこのガムランアンサンブルの登場を、「紅い橋」全編に対する大きなインサートショットとして企画してしまったのです。構造としてはそういうことなんですが、果たして成功しているかということになると...

t・楽曲全体のインサートとしてよく理解できますけれどね。まずスリンが聞こえてきて、それに引っ張られてまた違った世界が挿入される、と。

y・そうかもしれないけど、正直言って僕の動機が不純になりつつあるんですよ。曲中に別の展開を引き込むのに、芸術的な理解からそうするというよりも、なんかこのままだと、単なるメロドラマと取られる危険があるなという、俗っぽい猜疑心が生まれてきたことが理由だったりして(笑い)。ちょっとオーディオ的な仕掛けが必要かな、なんてね。それで本編のリハーサルが終わってバンドがおおむね仕上がってから、あらためて高橋さんに打診して...。ものを作っていると、どうしてもこういう場当たり的なことに左右されていっちゃうんで、いやなんですけど。

t・(笑い)。このパートの終わり戻りで、パツッ、と一発入るじゃないですか。

y・あそこは、これまた奇妙な旋律の、D/F#というコードでのイントロに戻らなくちゃいけないから、一回切ったの。ぎりぎり音楽的な選択ですね。でも、おっしゃるように、それで意味がでちゃってますよね。

t・あの音が来ると、何か覚醒した感というか、何かこう、それまで引きずられていたところから、もう一度目の前にある現実を見直すような不思議な感覚が生まれますよね。

y・高橋さんとしては、あのパートはあのままで良いと。

t・って思いますね。というか、こんなものは他に無いからね(笑い)。

y・ミックスの段階で、本編との音色的な差をどう付けていくかという問題が当然出てきました。映画の世界だと、物語の時代背景を規定するようなニュースフィルムをインサートして、画面的にもメリハリがつくなんてことがよくあって、じゃあ、我々もそれでいこうと。この場合、オーディオ的には民族音楽の記録音源なんかがそれに当たるだろうということで、やってみたわけです。音源は遠いんだけど、マイク一本で、正しい位相でアンサンブル全体に自然と聴点が行くような録音ですね。こういうものを模してみた。

t・そういう風になってますね。広がりが独特な感じで、違うところにぽつっと立たされているような。

y・そうこうしているうちに、白い光の(悲劇的な)体験というフィクショナルな世界観が弱まっていきませんか?

t・いや、ここでもそのフィクショナルな体験は続いていますけれどね。『ああ この腕の噛み痕消えず』というフレーズの後、突然聞こえてくるスリンの音に引き込まれるようにしてこのガムランパートに入っていくわけじゃないですか、スーっと。聴いている我々がどう反応しているかと言えば、すっと自然に、かつてこの二人の身にいったい何が?という物語みたいなものも生まれてきて、遠いところに思いを巡らせている。と、バツッ、と途切れ、また本編が始まる。そこで我々もちゃんとこの"現場"に戻ってくる。

y・『噛み痕消えず』以前に『思い出す 田舎の道のグミの花』なんていう歌詞も出てきますしね。ここはコーラスが歌っていて、思い出している主体の人称がはっきりしないというのがミソなんですが。

t・ガムランパートの最中、アヤコレットの歌う娼婦であるところ人物はどうしているかというと、横たわる男のそばで呆然とたたずんでいながら、彼女自身の過去に遠く思いを巡らせている。その、時の長さ、隔たりみたいなものも感じ取れるから、やはり(悲劇的な体験という)フィクションは持続していると思うんです。

y・ということは本編を聴いて巡らされた思いが(それはどんなものでも良いのですが)、挿入されたガムランパートにも持ち越されているということですね。それだとやっぱり失敗なんですよ。ここで何かしらの効果を期待するとしたら、それは異質な何かと遭遇するということですから...。

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