第5回
紅い橋

皆さまこんにちは。今回のクリエイト・ファンタスティカリー対談は「紅い橋」という曲をテーマに進めていきたいと思います。
それでは、スタート!!
【「紅い橋」の詞を読む】
【「紅い橋」を聴く】

1「紅い橋」・赤い(!?)話

y・「紅い橋」の、アレということで...。この曲はあまり資料を持ってませんでしたね。譜面しかなかった。

t・今までの曲では、インスパイアされるモチーフが何かあったじゃないですか。グラフィカルなものなり、具体的な音源だったり...。

y・制作動機はこの曲についても、もちろんありますが、そうですねぇ...ざっくばらんに言えるところから始めますと、色で言うと、白だったんですよ、「紅い橋」なのに。

t・アラま、曲のイメージが?

y・そう。

t・で、その白さを、どのように昇華させていこうとされたんでしょう?音楽の中で。

y・うーん...ある程度話していかなきゃならないですね。ただね、こういう事はかなり自分勝手な言い方をせざるを得ない部分がありますので、あまりざっくばらんな聞き方をされてしまいますと、どうもね。永遠に一人で喋らなくちゃならなくなる気がする。はしょれないんですよね。

t・(笑い)

y・この曲に取りかかろうとしたときのムードというものを、実はハッキリと覚えてまして、またもやここに名前の出てくるロラン・バルトというフランスの作家に、彼の死後、出版された「偶景」(※1)という本がありまして、エッセーの寄せ集めなんですが、ここに表題作である"偶景"というアフォリズム集が収められています。ここでは、バルトが若いころモロッコに教師として赴任したときのことを中心に書かれているんですが、それをですね、俳句のようにして、説話的な展開を排して淡々と、数行で記述していくわけです。どこそこのカフェで手にした珈琲カップの縁が欠けていたとか、知り合いの男娼の爪がよく手入されている、だとかですね。これはまあ、誰が読んでも面白いわけです。で、書き方の形式としては、三行ぐらいの断章形式ですから、ぱっとページに目をやると、白い印象なんですね。行間がたくさん取ってある。詩の本なんかでもそうだと思うんですが、まず白いんですよね。白さの認識の後に、おもむろに読み始めると。バルトの「偶景」の場合もそうなんです。白さと共に読み始めるわけです。それで読み出すと、モロッコですから、光線は強烈であると。これが、あらかじめ与えられた白さの体験と一致するわけです。まばゆい光と、ページの白さですね。ですからこの本を読むときの享楽の体験というのは、唯物的に立証できるんですよ(笑い)まあ、この白さを、何とかしたいなあ、という思いがあの当時の僕にはあったんですね。

t・なるほど。

y・それから、もう一つ。話がまたがらっと変わるんですけど、小泉訪朝(※2)というのがありました。

t・ええ。

y・そして北朝鮮による拉致被害者のうち、数名の死亡が報告されるわけです(現在に至ってこれが確定的なものではないという考えはもちろんあります)。このニュースに触れて、単純にショックを覚えると。恐らく最初はヒューマニズム的な見地から。それから、これも多くの人と共有できる認識なのではないかと思うのですが、やはりここでの死というのは偶発的なもの、ということだけでは済まされないのではないかと。つまり、単に頭のおかしな国が頭のおかしな行為に及んだ結果としてたまたま起こりえたこと、ではなかろう。死に(明らかなる愚行が引き起こされるに)至るまでの因果関係というものが、歴史の中にあるはずだ、と。それで重要なことというのは、この直感を今、共有しうるものと言いましたけど、それと同時にやはり隠されたものでもあったわけです。タブーってやつですね。ですからそれぞれが非常に孤独な立場でもって、この直感を手にしたのだと思います。ここでその直感を証明できるほど存分に歴史を勉強したわけではありませんし、そういう場でもないわけですから、何か結論めいたことを言うつもりは毛頭無いのですが、日本という国家と、島嶼東南アジアを含めたアジア各地域との戦前からの関係を、個人的に今一度調べてみるという時期でもありました。

t・現実からくるショックに突き動かされたということですね。

y・ええ。(僕なんかが普段は避けて通りたいと思うような)大文字で語られうるようなショックがあった(と同時にこのショックの感受は、その受け取り方ゆえ、人に孤立を強いる)。そしてどこかに、プロテストしたいという意識が働いていたんです(作家にとっては危険なことです)。こういう意識については、外にも、自分に対してもアンニュイなままにしておきたいと思っていますので、明言は出来ないのですが。で、本を読んだりアジアの音楽を色々聴いたり(音楽からも汲み取れる歴史感覚というのはいくらでもあるのですよ)している間中、例の"偶景"体験から得たまばゆさの白が、常にあったんですね。この二つの体験は互いに無関係かもしれませんが、二つが同時にあったということで、今このように話を進めてみているわけです。

t・それは、具体的な、この「紅い橋」という曲に至る過程というわけではなく、当時おかれていた柳川さんの周辺にあって、たまたま触れたものや、(その時の)社会の動きというものがあった。というか、それらのものが自身の前に横たわっていた時期だった、ということですよね。そうすると今、この「紅い橋」という曲に関して、これら二つの話が出てきたというのは、直接的ではなくても何らかの形では、この曲に影響を及ぼしている、必然的に下地になっていたということになるんですよね?

y・ええ。特に歌詞を書いているときなんですけど、その白さが、何か暗い心象を表すふうになってきたんですね。個人ではとても太刀打ちできないような、歴史の悲劇を体現しているキャラクターがいて、その人が強い光の中で、為す術もなくしている。というより、強い意志からではなく、白いまばゆさの中に入り込む以外、他に仕様がない。この人は娼婦なんですね。それは曲を書き始める時に決めてありました。戦争の時代の、娼婦の歌。

t・ああ、これは意外なことになってきましたね。詩からはそれ、読めないですよね。

y・うーん。例えば、いくつかあるんですよ。『呼ばわれて 朝を迎えつ 髪をとく』"呼びたてられて"来た人なんですね。それから、なまめかしい『眠るあなたに 手をかざす』というフレーズがあって、しばらく後に『目を閉じれば 街は囁く 口をつぐめと』とくる。決定的なのは『ああ この腕の噛み痕消えず』噛まれちゃうんです。単純に言って、全編で歌われているのは、本意ではなくここに現れた女性とその相手との朝のすれ違いの場面であるということです。まあ、出来たものは出来たものとして、完成させるために作者には必要であったストーリーです、これが。高橋さんはどんな風に受け取っていました?(笑い)

t・いやぁ、ラブソングだと思っていました。『噛み痕』など含め、たった一夜の逢う瀬であるとしても、ラブソングということだろうと。この曲、詩が先なんですか?

y・いえいえ、いつも通り曲が先です。そうですけど、最後に詩を当てはめていくときには、いつどこに誰がどんな状況でいて、っていうようなことはもう固まってますからね。後は言葉を置いていくだけという感じですね。音楽だとこういう順序になるんじゃないかな。もちろん、厳密にメロディーのこの部分ではこういうシーンで、といったようなことは言えないですけど。音楽全体の流れとシチュエーションの変化は、僕の頭の中には一致して入ってますね、詩を書く段では。

t・いずれにしても、政治的歴史的に読める事件が起きて、この曲の背後にはその事件から受けた個人的な心象が反映されているわけですよね。それが、ドロドロとした、声高な主張として叫ばれるのではなくて、ラブソングと取れるような音楽表現にまとまっていったわけですね。

y・歴史や、政治への意識が元になっているということは確かだろうと思うんですけどね。それで、音楽がイデオロギー的になるということはなかったですね(そういうのもやってみたいですが)。ただ、後々お話していくことになると思いますが、ここで歌われている男女の関係というのは、ちょっと穏便には済まされない関係ですよ。

t・政治的なモチベーションをもって、とは言え、この曲は、まぁ、ひとまず歌詞の上では、このような表現に落ち着いた。とすれば、これが柳川さんの世界観なわけですよね。とすれば、このストーリーの世界の中に入ることの方が、我々にとって身近ではあるわけじゃないですか、政治的な異議申し立て、そのものを理解するということに比べれば。ぱっと聴きでは男女関係の歌。美しい自然の描写が配置され、その中に静かな存在である一組の男女...。

y・美しい自然というのは恐らくサビの部分で唄われる『流れ谷を越えて 満つる淵 北の森の紅い橋』というリフレーンのことですね。このフレーズが(サビなんですが)曲中、何度も繰り返されると。そしてこのフレーズとは対比的に、男女の希薄な関係が示されているように聴ける部分があって、これらが交互に歌われていく。で、この二つの情景というのは相互に切り離されている。男女がいる場所も時間も、森があって川が流れて、そこに橋が架かっててと歌われる描写とは関わりを持たない。二つのお話の進行は、少なくとも場的には交わることはない。

t・確かに彼ら二人が橋の近辺で何かするわけではないですよね。

y・そう。二つの舞台は最後まで繋がらない。

t・紅い橋の辺りでは人の気配がしないんですよ。

y・ですから、カップルが歌われる部分は物語性を持っていて、サビの部分は、映画で言えば、インサートショットですね。インサートショットというのは、ストーリーの進行には直接影響しないけれど、その進行の背後に流れている人の感情や出来事を、説明的ではなく、シンボルを使ってよりスマートにわからせる、というか悟らせるためのショットです。

t・しかし、『流れ谷を越えて 満つる淵 北の森の紅い橋』と歌われるサビの部分は何度も繰り返されるわけで、こうしたフレーズが差し挟まれることに何か意味があるように聴けてしまうのですが。

y・そうですね。映画の場合は、いま言いましたように、インサートショットでもって何かを暗示的に提示することによって成功した表現ということになるわけですが、この場合はどうですかねぇ?

t・ヴィジュアル的なことを言えば、緑(森ですからね)にひっそりと紅い橋が架かっている。色としても補色の関係になっていて、バシっとくるじゃないですか。静かなんだけど、鮮烈なイメージですよね。

y・そうなんですよね。いや、しかしこんなこというと疑われちゃうかもしれませんが、私、歌のこの部分に"アカ"さの印象を全く持っていないんですよ。作曲の段階ではもちろん歌詞を書いているときも、それから聞き返す現在でもそうなんです。全然"アカ"くない。以前として"シロ"いんですよ。

t・ええ!?緑は深々とした濃い緑ですよ。紅(アカ)はね、朱色に近い赤で、カーッとくる感じがしますけどね。目にはっきりくる印象ですよ。

y・ねえ(笑い)。時に、蓮實重彦の新刊は、『「赤」の誘惑ッフィクション論序説』(※3)ですが、ここでは、人々が、何事かが"赤い"と書きつけてしまう瞬間からフィクショナルな行為は始まっている、というスリリングな読みが展開されている本で、ぜひ御一読いただきたいのですが、私の"紅さ"もですね、ここにすっぽり当てはまってしまいますね。ある種の罠でしょう、これは。『さあ、皆さん、アカいんですよ、いいですか、ここは一つ神秘的な象徴がありますよ、気をつけて下さい』って。しかも、"赤"ではなく"紅"なわけで、微妙な差まで付けてる(笑い)。しかも何が"紅い"かというと、"橋"ですよこれが。

t・象徴的ですね。

y・橋というのは、まぁ、こちらとあちらを結びつけたりしてしまうわけですよね。大変な装置ですよ。それがご丁寧にも"紅い"わけですからね。聡明な人なら笑っちゃうでしょう(笑い)。やり過ぎです。

t・確かにこの歌は、あちらからこちらへという運動感とは縁の無い内容ですよね。

y・そう、橋という小道具は全く利用されていません。まあこうしたことはすべて、目に見えるわけじゃないけどね。音として聞こえてくる言葉の上での話にすぎないので、映画や、書かれた言葉とおいそれと比較すべきではないでしょう。とはいえ、フィクションに加担する上で"橋"が"紅い"なんて、それじゃあんまりだ、なんて言うリスナーがいてもおかしくはないですし、こちらも、いえいえ、"紅い橋"というのは戦略的な罠です、とも言い切れませんから、ひとまず、"アカ"い話は脇に置いてくとして...。(笑い)


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