4 明日・モ・変ワラナイ


t/ここ〔第三部の歌〕にいたるまでに”山から下りて来ている”という設定はすでに考えられていたわけですね。

y/ああ、それはそうです。

t/この歌が出てくるまでのですね、曲全体の半分近くをかけて表現されているもや〜っとした音楽の部分、これが生きていますよね。浮游感のあるインスト群の後に異様に鋭い言葉がたちあがってくる。前半部の漠然とした感じが、後半の歌が持つ強いローカル性を上手く引きだしている。どこなのかがわかった、というかんじ。

y/そのもやっとした部分というのが、こう言うとばかばかしいんですが、ある種の対抗関係が示されている部分で...〔笑い〕

t/はい、はい。第一部、第二部の。

y/第一部は、確かこれもマンディングのリズムを発展させたもので、ギター二本と高橋さんのムビラ(※11)、それとつぶれたオルガンの音が主旋律を弾いている。あ、あと鳥が鳴いてる〔笑い〕。この編成でしばらく4小節を繰り返す。ギター二本のうち一本では湯川君がコラを模した分散和音を弾いていますが、これがじつに美しい。ムビラも真空管アンプで鳴らして申し分ない。余談だけど、このアンサンブルを作るのにエライ時間が掛かった(※12)ような気がする〔笑い〕。途中、山田氏は病気で倒れたし。で、そこにピアノ。ここまでで、どうしたってピアノなんか出て来るはずはない雰囲気はバッチリ出来てるから、際立っている。さらにピアノの弾くフレーズはオルガンの音形とほぼ同じで、しかも一度上。不気味です。タイムだけ合わせてリズムは全然別。ここは塚本君が上手く演ってくれた。それからストリングスのセクションが入ってくる。やはり同じ音形で、ピアノのさらに一度上。ピッチをずらしているのはコラージュの発想からです。どんな調子になるのか予想できなかったけど、それぞれの響きを違えてやる〔別の場所で鳴っているようにする〕ことで、ぐちゃぐちゃにならずに得難いバランスが作れたと思います。

t/アフリカのリズムに西洋のコード進行、という単純な構造でもないわけですしね。

y/そうそう。別の調、つまり別の段階でそれぞれが同じメロディーを弾く。つまり平行に移動している。しかも音色としての存在感は始めから対立したまま。全てコラージュの発想です。ちなみにこの後来る第二部は、混沌とした世界を抜け出て、僕なりのアダージョが展開していくわけですが〔笑い〕、第一部の頭から第二部の終わりまでは譜面(※13)に落とされてるんですよ。最後に塚本君のピアノをダビングする際に、彼が何をすればよいのか一発で理解できるようにね。ピアノとストリングスのパートに関しては別々に録って後からつなげたわけじゃ無いんです。だから発想はコラージュ的だけど、手法は構築的というか〔笑い〕。これが僕の弱点ですね〔笑い〕。

t/ただね、コラージュ的な発想とはおっしゃいますが、第一部のピアノが出てくるところから、音楽が独特の違和感を維持したまましばらく続いて、第二部で、あれれ、どこに連れて行かれるのという展開へ、そして第三部冒頭の寅ちゃん〔湯川君〕のギターの音が聞こえてくると何やらしっくりとアフリカ回帰を果たしてしまうという、あの心地好さの秘密は何なんでしょうか。ストレートなコラージュ作品と出会う印象なんかとは別なんですよね、やっぱり。この気持ちの良さを優先させて考えると単なるコラージュ感覚なのかどうか...。

y/最後に行き着くのはアフリカの音楽が流れるところの、パリなんですけどね〔笑い〕。まあ、でもホントに、どうして戻ったという感じがするんでしょうね。一つにはキーがC→無調→D〔第二部〕と来て第三部でまたCに戻るということがある。それから、アフリカかどうかはともかく、エスニックな音から始まって、音色的にも、調整もはっきりとしたヨーロッパ的な音に一度大きく振れて、またアフリカ。言葉にすると面白くもないけど、そうした事実はありますね。

t/無調の部分に関してはですね、例えばアフリカのヴィジュアル満載の雑誌の角を三角に、3枚合わせてカッターでスパっと切り取って、できた色柄違いのもの3つを微妙にずらしたり重ねたりして貼り合わせて、そうやって組み合わさった何かを見ているような感じがします。同型のフレーズに対する、異なる楽器とその響き、時間的なずれは、なんというか視覚的に理解できるような気がする。コラージュされてますよね。切って貼ったような印象、そこでちょっと異質な場所へ連れて行かれる。ただ曲全体はこの部分的なコラージュ感とはやはり異なる気配があります。もっと全体を漠然ととらえてみると、また別のことが思い浮かぶんですね。これは最初にこの曲にはストーリーがあるという話を聞いたからそう思うのかもしれません。第一部では山の頂からアフリカの土地を眺めているんですよ。なるほどこれがアフリカかと思う。遠い視線です。だんだんと濃密な空気に押しやられ第二部。で、今度はその土地の上を自分の足で歩いてみると、実はそこは見るもの聞くもの違和感だらけ。具体的なアフリカに触れて愕然とすると。近視眼的なまなざし。ところが中腹、あるいは麓の近くまで来ると部落なり何なりがあって、非常に閉じたぬくもりというものが感じられるんです。日常の風景というところまで降りてこられるんですね。それで、ああ、これがアフリカであったか、と胸をなで下ろすんです。通常のピントになったというかね。

y/ああ、それはイニシエーションだ。そうか、だから最後はパリなんだ。社会ということだ。

t/柳川さんがこの曲のために書いたメモ(※14)というのをいくつか今見せてもらったけど、これはもちろん気の向くままに集めた資料からの抜粋で、アフリカというテーマこそあれ、ここから何かが具体的に音楽に反映されているわけではなさそうなんですが、これを見てるだけでも不思議とさっき言ったようなことがあらためてしっくりとハマるのではないかな、という気がいたします。

y/メモっていうのはようするに、断片がたくさん欲しいから作るんですよね。その中で溺れたいという。高橋さんがこの曲のために作ってくれたパースペクティブは美しいし、そのようなものであればいいなとは思うのですが、自分はやはり単に断片をつなぎあわせただけという印象が強いんですね。その時に何が媒介になっていたかというと、山からだんだん下りてくるという運動感や景色の変化に対応していく感覚だったんだと思うんです。だんだん話が音楽とは離れてきちゃいましたが、もういいやって感じでだらしなく続けますと、実は僕はこの曲を愛してしまっているんですよね〔笑い〕。それはタイトルを思いついた瞬間だったんですが、自分の中にある何か情動的なものがひょいと出てきてしまった。

t/「明日も変わらない」、最初カタカナでしたよね。なんだそれは!という感じでした〔笑い〕

y/「アカルイミライ」というのが出てきちゃったんで変えましたけど。それはもう穏やかな秩序の感覚ですよ。普遍的なね。そしてとてもつつましい人間的な視線なんです。ただ同時にこの視線は「アスモワカラナイ」ということを見越している。こう直感して、僕は泣いてしまうわけです〔笑い〕。歌の最後のリフレインがこの直感の後に書かれたものなのか、先にあったのかはもう忘れてしまいましたが、高橋さんが言うようにこの部分はごく日常的な光景を綴ったものですよね。日々のサイクルが劇的な形ではなく、凡庸だけれど奇妙なほど正確な言葉で、三度繰り返して歌われる。

t/そして、スッと、消え入るように曲が終わるのですね。

y/そうです。後に残るのは否定的な感覚でもなければ、肯定的なものでもない。何かをあきらめた、というような文学的な情景が示される事もない。お話してきましたように、色々とややこしい音楽的手続をさんざん踏んできた後、最後は”8時にはバスが村に来る 港まで”と、日常を形作る素朴な出来事がただ示されるだけです。AとBとCと...を聴覚を頼りに結びつけていく、僕はそれを一生懸命やるだけなわけですね。幾つかのプロセスにおいては、その手順を人様に説明することも可能です。「明日も変わらない」では、どうやらこうした労働の身振りが自分の中のある無意識を引き寄せてしまったらしい〔ということはその領域においては意識的に成りえたということですが〕。それは、存在の危うい両義性が表面化するのは、現実の取るに足らない、ささいな出来事の内にであるという、唯物性への直感でした。間違ってもそのことが、この曲の主題になってしまうことなどあっては成らないことだとは思いますが。むしろ、ですね、ある感覚に打たれて、はっと自分の手の跡を振り返ると、出来上がった曲が正しくそのようなものとしてそこにあったわけです。これはひどく幸福な体験でしたね。

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