3 言葉と歌


t/先程、今回はマリンケでいくと言われました。その選択に深い意味を持たれようとはなさらないことも確認できました。ところで、マリンケ族の音楽を再現しようと試みられる段階で、音色的にはどのようなアプローチを考えるのでしょうか。彼らの音楽に特徴的なコラやバラフォン(※7)といった楽器を使われるわけではないと。ああした民族楽器の音は外の世界に向けて発せられた場合、都合の良い記号として流通してくれるでしょ。その音が鳴ればエスニックなものへの感覚を反射的に期待できる。しかしそうはしないわけですよね。

y/バラフォンに関しては使ってますけどね。もちろんシンセサイザーで代用して、アンプ出ししています。録音の際に慎重になるのは、これを響きの良い部屋で鳴らして、トーンの微調整とマイキングで音の輪郭を作り込んでいく時です。エコーと残響の強さに気を配ることももちろん重要です。アンサンブルの中で、この音色がどう響いてくれるのが一番アフリカ的かと...(笑い)あるいはアフリカのミュージシャンがパリに呼ばれて興行を打つといった場合、いったいどの程度の規模の会場が適切で、どんな類の観客に囲まれ、その時どんな緊張感が生まれるか、そんなことを想像〔妄想〕しながら適切な響きを探っていくのです。これは僕にしか確認できない作業です(笑い) 。音色は重要ですが、おっしゃられたようにそれが単なる記号として、音における紋切り型として作用してしまうことへの警戒心は僕も持っています。ただ、聴点を常に響きの側に定めておけば必要にそのことを心配しないですむのです。響きには個性があります。アンサンブルにおいては各楽器の離感がこれを表します。音の世界においては距離感は時間的な差異の問題を体感させてくれるわけですが、ここに評価、個性、魅力を感じ取るのです。ポエティックなアフリカ的時間感覚を聞き取ること、これが喜びです。こうしたことの実践にオーディオは最適な道具なのではないでしょうか。

t/アフリカンな音の秘訣は響きであると。

y/音楽をオーディオ作品として作り上げていく過程にはもちろん他にもたくさんの示唆すべき要素があります。作曲、楽器の選定、リハーサル...どれも無視できない役割があり固有のプロセスを持っています。しかし僕の場合は、最終的にはどのような響きの複合体を作り上げれるかに最大の関心があると言ってよい。どのようなメロディー、リズムを選ぶか、どのような音色を選ぶか、そして肉体がそれらをどのように制御していくか、こうした作業は皆少しずつ響きの創出に貢献してくれる。そう考えています。

t/ふむ。

y/納得されましたね(笑い)。理念ばかり披露してちょっと偽善的な気持ちになって参りましたので、もう少し実際的な話を。先程からお話している音響的なアイディアにはちゃんとリファレンスがあるんです。例えばこのCDです。

t/名高いオスマン・サッコのライブ!(※8)

y/そうです。「明日も変わらない」第三部は、このアルバムの中のとある一曲のリズムアレンジ、それから音場の設計まで含めてそのままイタダキです。この曲の、純粋に音楽的な個性として我々がまず注目したのが、バラフォンの演奏でした。1小節単位のフレーズを繰り返しているだけなのですが、アクセントの位置がアットランダムに変わるので、自由かつ複雑なシンコペイトに聞こえる。それからダイナミクスの激しさ。歌中におけるバラフォンはほとんど聞き取れませんが、気配だけは濃厚に漂わせている。これはシンセのタッチで表現するのは無理なので、フェーダーで(笑い(※9))。オスマン・サッコは、ここではコラ〔orンゴニ〕のフレーズをフォークギターで再現するスタイルをとっているのですが、これが魅力的でね。ギターの音色が耳慣れない音形を奏でることで、〔"ギター"という名前を離れて〕音そのものの即物的なインパクトがストレートに存在している感じ。うちのギタリストの湯川君は、音のそういった生々しい表情を感知する能力に恵まれた人だから、ホントに上手くまねしてくれた(笑い)。どんなもんでも楽器の弾き方というのは、音のむき出しの存在感に触れるところから学んでいかないとね。それからパリの聴衆の沈黙というか、異文化に触れるときの緊張感がざわめきとして音に記録されていて、これがまた素晴らしいんだよね。西アフリカ出身の人たちがその中に多く含まれていたであろう事は想像に難くないけど、それでもグリオが奏でる音楽の中に異質な耳がそのままの状態で介在することで、全体として新しい音響を創造しているように聞こえる。外国で演るからといって、上げもしなければ下げもしない音楽家達のスタンスも高貴なものだと思うけれど、アコースティックそれ自体が透明で、なんというか、品位が高いように聞こえるんですよ。例えば東京で聴くガムランだとこうはいかないんじゃないかな。

t/「La Nuit des Griots(グリオの夜)」からのそうした様々な影響下のもとで、アメフォンの手によるあのヴォーカル、あれはすごい!

y/某シンガーが期待を上回る効果を上げてくれましたね。もちろん彼女にはグリオの歌唱方の参考になるような音源を幾つか聴かせてはありましたが。まさかあれができるとは!

t/あの歌い方、旋律で、歌詞が日本語でしょ、これは誰に聴かせても言うんですが、日本語だったんだ!って。歌詞カード見て初めて気がつく。

y/見ないでもちゃんと日本語歌ってますよ。カツゼツもはっきりしてるし。ヨナヌキ(※10)ぎみのメロで、ああした16分音符の早いパッセージに乗せて日本語を聞いたことが無いから、皆気がつかないのかもしれませんね。

t/さっきのバラフォンの話とすごく似ていると思うんですよ。つまり強拍をどこに持ってくるかというのをランダムにしておくとことで、単純に4つとか8つとかで線が引けないように聞こえてくる効果がこのボーカルパートではすごく出ています。歌詞を読むと単語ごとで単純に意味的な区切りは理解できるはずなのに、音で聴くと通常の語りのような文節の関係は見えなくなる。

y/そうそう、シンガーに渡した譜面も小節線は書かなかったの。音列の上に詞がついたものをセンテンスごとに見せて、バックの演奏に対してはタイムだけとっていてくれればいいから、好きなところからこれ歌ってって。そういうやり方を、彼女が感覚的に理解してくれたのがやはり大きかったですね。それから、僕はあの歌、マンディング風の印象を持つと同時に、日本語の発音の地方性なんかも感じ取れるんじゃないかと思ってるんですけど。味があるでしょ、色モンじゃなくて。

t/ローカルさというのは素直に伝わってきますね。”マンガラ〜”ときて、”むくげの実”だし。

y/西アフリカ的な固有名詞がまずきて、その後は朝の情景です。”お湯わかせ””マンゴの皮を剥き庭を掃く”。ちなみに”皮を”の”を”は彼女のアドリブ。譜面には無い音で”を”を入れた。”を”を入れないで下さいと何度言ってもだめでした。ちょっとぎくしゃくしちゃうと思ったんだけど、今聴くとこの音が味かな。これは、高橋さんがさっき言ったように言葉の意味性と、それを支える文〔分〕節の関係がちぐはぐになってるから、〔意味から離れて〕音それ自体が強調されて聞こえてくるのかもしれない。こういうやり方は初めてだったけど、歌詞を書くときはいつもその効果のことを考えているんですよね。語の味わいといいますか...最後はリフレインで、”8時にはバスが村に来る 港まで”これは次のショットの(笑い)進行方向も示したつもりです。ゆるやかな下降運動ですね。麓の町へと。その先は表現されていませんが、まあ、それがある種の「希望」なのかな。

t/この第三部の歌は詩が先?曲が先?

y/さすがにディランのようには出来ないですから。曲が先ですね。まだまだインスピレーションのままには手は動きません。分析の結果です(笑い)。

>> 1 >> 2 3 >> 4