3 ver.1.3からver.3.0へ

t・ここで、最初のどうとでもなっちゃう状態から見れば、飛躍的に音楽的になったんだと思います。そしてここを基点にしてVer.1.3(※13)になると、ある種の譜割的な発想でさらにズラし込んでみちゃおうと考えました。

※13 noon nap nude ver1.3 画像クリックで拡大します。


というのもVer.1.2で採用していた一息の長さに、すごーく長いものと、普通に長いものを区別するという曖昧さを人は演奏なんかに関わると分からなくなってしまうんですよね、やっぱり(笑い)。特に演奏の後半になると、さっきの最大限に長いのは、いま吹いてる普通に長いものより短い、なんて言うことが起こってしまって...


y・そこをリーダーが強制しちゃうと、任意性というアイディアが消えちゃいますからね。

t・ええ。それで、その辺はもうちょっとコントロールしてもこの面白さは壊れないだろうということでのバージョンアップです。最初のver.1.0からの同じフレーズを皆で吹いていくということは全く変わらずやり続けるんですけど、パート分けされた人たちがもっと意図的に横のパートの人の音の変化を確実にとらえて、自分がどこで次の音に移るかという位置関係をかなり明確にしちゃうということに変えたんです。例えば、もう隣の人が次の音に移ったから僕はまだ吹いていなければとか、この人が休んでいるから僕はまだ休めないとか、あの人が休んじゃったから僕は次の音で出なくちゃとか。それはつまり、もう自分だけの演奏ではなくて、周りがどんな動きをしているかを並行して見て、そこにおいて自分の相対的な位置関係を考えて下さいというルールに変わってます。ここではもう自分一人での演奏はできないようになっていて、不思議なというか誰が中心になっているか分からない世界。ちょっと変な感じというか...

y・マトリックス(※14)が体験できると。面白いな。社会生活をパターン化して、音楽的に実践できるわけだ(笑い)。これ、このまま、学校で子供たちにやらせればいいのに。充分メソッドになってるし。自由ということを、概念なしに体験できるんじゃないか。面白い。

t・音楽をきちっとした体系の中で学んでいる人たちにとっては至極当然のことかもしれませんが、僕がこういう仲間達と出会ってやり続けたことがやっとここまで来たという気持ちと、自分の音をどういう形で周りの音に対してコントロールをしていくべきなのかということが、この段階まで来るとすごく明確になりましたね。それは最初のわくわくした面白さとは別の面白さを確実に生みました。

y・なんて言ったらいいんでしょう、あの、自由という言葉の持つパラドクスってあるじゃないですか。他者から自由にしてくれ、と言われてしまうと、もう自由には振る舞えないという。相手の指示にしたがっているだけということになりますから。さっきから、なぜか僕は行雲流水を自由というキーワードで考えようとしているんです。単純ですが、それは、外部との関係性に敏感になるということなのかもしれない。因果関係の網の目を読み解いて、自分の位置を割り出していく。これが行雲流水のゲームの規則です。世に言う、自由というのは大概嘘臭くて、そのように振る舞う原因を外部から規定されて持っているわけです。自分だけは即自決定に基づく輝かしい自由の体現者である、といった顔をしてね。こういう、やぼったさから離れて、行雲流水は他者との関係をはかることで自分が何者であるかを見極めようとする。少なくとも、一人一人が、そう指向することが、場を成り立たせる根拠となるわけだ。ゲームのルールはこれを強制するわけだけれども、最終的には、ヒエラルキーの無い、マトリックス化された世界が生まれると。そのことが音だけによって伝達されているわけであって...

t・この段階で、だから、他の曲にも影響はありましたね。けっきょくパート分けされた他の曲を演奏するときにも、相手がどう動いているのかということを皆がすごく意識するようになったということはありますよね。自分だけで先に進めないというか。ある程度、周りとの関係を意識していないとやりずらいというか。この段階で、そのようになれましたね。

y・そしてこれが、さらに改定されたバージョン。

t・はい。いよいよ飛躍があってバージョンは3.0(※15)となりました。

※15 noon nap nude ver3.0 画像クリックで拡大します。


ここまで来るとずいぶんといやらしくなってきて、いろいろと音楽的なことを考え始めます。自分の中ではゲーム的な楽しさ、どうなるか分からない面白さでずっとやり続けてきましたけれど、だんだん曲みたいなものとして形が固まってきて、よりそれらしく一つの完結した作品としても面白がることが出来るんじゃないかと思い立ったわけです。それで、これを、一、二の三、ハイっ、でないやり方でと、冒頭部分にちょっとこう、序章ですよね、何かをつけてみたらまたずいぶんとイメージって変わるかな、という気持ちからイントロを付けてみたりとか、個々人の一息の長さにこだわるということは未だに、まだここでもやっているんですけれど今度は明らかにブレス(息継ぎ)の位置を決めてしまうとかで、音楽的なニュアンスを出してみたんです。


y・〔譜面を見て〕これは強弱が生まれるということかな?

t・そうです。音量にもある種のコントロールを付けてみたらどうだろう、っていうのがありました。音量の強弱を考えることで、その最弱音としての休符、息継ぎ、"休み"みたいなものもとらえ直しました。音を引っ張って、さらに引っ張ってみて、もちろん途中に"休み"の箇所はすでに作ったから、そこで息を継ぐことは出来るんですけど、一つの流れるメロディーみたいなものをどこで区切っちゃうかでずいぶん曲の感じは変わるし、それなら、ここでブレスと決めた方がよりいいかな、など、そういったことをすごく考えた時期なんだと思います。つまりここまでの間で、あえて普通に音楽的なこともちょっとずつやっていって、やれるようになったことと、やってみてもいいんじゃないかなと思ったという変化があったということです。

y・イントロが付いて、強弱も付けることで、曲全編に個性的な流れも生まれて、演奏する方はここに来て、いよいよ一つの曲をやるんだというモチベーションが持てるようになったと。

t・音楽に向けてのアプローチを素直に取り始めたということだと思います。そして、これがまさに、今やっているバージョンなんですけれど...。

y・楽譜の書かれ方が大きく変わりましたね。

t・そうですね。それは、今まで行雲流水に取り組む中で生み出されたいくつかのルールがいよいよ固まってきたからでしょうね。それらの発見されたルールは現在では、音を延々と持続させたり、短いフレーズを反復させる中でそれらの微妙な変化を見ていくことや、そのどちらにもよらないもっと偶発的でゲームチックなやり方、さらに、どこにどんな音を出すのかだけを突き詰めたちょっとややこしいものから、まねをしたり、身の回りにある具体的な物からはじめる遊びのような方法までいろいろとあります。そもそも行雲流水の音楽を作る時には既成の約束にとらわれない発見をしていこうとした結果、このような独自のルールを作ることになりました。それは例えば、円周が直径に対してどれぐらいの割合かというのは、地道でいやになっちゃうかもしれないですけれど、ひもでも使ってたくさんの円を描いて、その円周と直径の長さの関係って?ということを調べたい。3.14うんぬんとかいうのは知っているから、あ、そうなんだと言って、そこに、ぽいと数字を当てはめるよりは直径と円周の関係ってどうなっているんだろう、ということをずっとやっていこうという気持ちと同じなんです。そういうわけで2001年から演奏されている「noon nap nude」の最新バージョンはこれらいくつかの行雲流水ルールにあらためて向き合った上で、イントロや間奏のようなもの、ブレス位置などの音楽的な決め事も付け加え、さらに鍵盤ハーモニカと菅楽器など二つに分けた楽器パート編成も取り入れました。これらは我々にとっては大きな変化ですが、先ほども話しました音の強弱の細かなニュアンスを意識的に行うという小さなことも見逃せない要素です。以前のバージョンまでだと"休み"を作ったことで生まれた音量の変化、三人から四人になれば厚く、二人になれば薄く、一人しか吹いていないところはとても小さな音に、ということさえ全て偶然でしかなかったので、今度は、どのくらいの音量で音を出し始めてどこまで大きくしてどういう形で終わらせるのかということまで他とのバランスを考えながら行なえるようにと、スコアのグラフィックも大きく変わったんです。

y・アンサンブルを作ってやるという。

t・そうです。もっと意図的にあてちゃったりしても面白くなるかなという気持ちで。

y・そりゃ、なるでしょうね。そうか、今までの話、分かるといえば分かるんですけれど、やっぱり良くは分からないんですよね(一同笑い)。でもそこが興味深いんですが。普通、音楽を演奏するに当たって、やるべき曲があるなら、アンサンブルにおける技術的な側面は経験上簡単に割り出せるわけですよね。ここは強くとか、もっと早くとか、多少の試行錯誤はあるにせよ。それを、完成した楽曲の形態を想定せずに作っていこうとするというのはね...。これはどういったことなんでしょうか?考えてみると、ライリーはもちろんだけど、ジョン・ケージ(※16)を初め、特に二十世紀中ごろのアメリカの前衛音楽家たちが残してきた仕事が、しみじみと思い返されますね。一曲御披露いたしましょう、ということで果たされる役割とは別の、新しい(?)音楽家の存在意義、社会参加の仕方を考えてきた人たちが、かつても今もいるらしい、ということですが。なんでも制度に乗って見てしまうとね、ジョン・ケージ?、ああ芸術家の方?なんて、こっちもまじめに考えなくなってしまうんですが。一方、芸術家村の住人になってしまって、四分三十何秒(※16)なんていうのを自明のこととしてすっと受け取っちゃうていうのもなんだか気味の悪いところがあって...。こうして行雲流水の話を高橋さんから伺っていると、あらためて、面白いですね。リズムや、メロディー、それからその実践のためのアンサンブルの方法等を、美学的なこととは距離を取りながらとらえ直してみる。例えば、ある場合には、演奏方法が音楽の内容を決定していくということが起こりうる。奏者の人間的なメカニズムが、いかに音楽を規定していくかということですよね。音楽って何?って、素朴に問い直してみたくなる。もちろん答えが出るはずもないのでしょうし、それゆえに不安な気にもなりますが。

t・ええ。先日のテリー・ライリーのコンサートを聴いていても思いました。けっきょく、楽器のアンサンブルというものは音楽的に考えられていますよね。つまりパートごと、あるメロディーに対しての和音の構成とか、音を出すタイミング、その時のアタックやリリース等など。もちろんそういうもの全てを考えるということが音楽の中にあるのだとは思いますけれどそれ以上に音楽は、響きそのものをどうするか、ということがまずあって、まあもちろん、楽器の選別から音律までその方法は多岐に及びますよね。今回のテリー・ライリーの場合だと、本人の使用するピアノ、シンセサイザー、それから共演者のギター、ゲストの和楽器奏者の方々の、笙があって、琴があって、あと鼓などの打楽器が各種。そういった楽器群が選ばれ、音を出すもの全ての音律はある純正調(※17)に合わせられ、響きというものをきっちり含んで一つの音楽世界を一曲の中で作っていく。曲という形を構成するもの以上に、そこの色っていうようなものまでをですね...

y・僕は音色の話がしたかったわけではないんですが...

t・ええ、だから何が言いたかったかっていうと、行雲流水は、音色に関しては最初からあきらめたんです。

y・あきらめた...。

t・はい。音色をどうにかしようということは。あきらめたと言ってしまうのはちょっとあれかな...。

y・響きの美しさみたいなものを第一にしていた、ということではないんですね。

t・ないんです。出来なかったんです、正直に言って。そうですね、響きそのものに厳密さを求めることが、です。というのは、鍵盤ハーモニカという楽器を行雲流水では中心に使っていまして、これは日本ですと学校で扱うということからなのかもしれませんが、様々な種類があって、一度、自分の興味から音程を測ってみたことがあるんですけれど、それぞれで2Hzぐらい違うんですね。例えば、Aの音だと440Hzが真ん中だとしたら、上下差が出ちゃって、まあ基本的にちょっと明るいトーンに作ってあるものが多いんですけれど、皆の持ち寄った楽器のピッチ(※11)が、まずとれない。同じ音と便宜的に言ってますけれど、皆が同じAの音が出せるとかではないんですね。それゆえにその響きは、うなっちゃってるんだけどそれはもう言わない。それから、鍵盤ハーモニカは思いっきり吹くとベンド(※11)が掛かって(音が)下がるんですね。

y・だから、我々が音楽を作るときに使う楽器は、それ自体で、それほど音楽的なものではないということですね。

t・そうかもしれません。こういったある種の情報(響きのいい音程や音色、そのための楽器類の知識や訓練など)を手にしていても、それらをここ(行雲流水)で、かなえるためにやるっていうのは、もう、はなから違うだろうということとは思っていますね。

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